唐津街道 人、もの、文化を運んだ唐津の大動脈
唐津街道は、起点については諸説ありますが、若松から響灘、玄界灘に沿って博多を経由し唐津へと至る道で、古代より大陸からの文物を運ぶ重要な道筋でした。
現在の国道3号と202号にほぼ平行し、全長は約130km。鎌倉時代、元寇を迎え撃つ武士たちも行軍したといわれています。
江戸時代になると、唐津藩と福岡藩の参勤交代の道として使われるようになり、街道沿いには13の宿場が整備されました。
若松、芦屋、赤間、畦町、青柳、箱崎、博多、福岡、姪浜、今宿、前原、深江、浜崎です。沿道には有名な古社寺があり、松原や砂浜も多く、風光明媚な街道だったことがうかがえます。
現在でも街道を歩くと、大庄屋の建物や国境碑、道しるべなどに当時の面影をしのぶことができます。
唐津街道、唐津と糸島の県境にある包石
海岸に「包石」があります。自然が創りだした、造形品です。伊能忠敬の『測量日記』には「海辺に包石あり、古は、鼓石と云う」と記されています。
古歌には「名にし逢う 響きの灘の白波は 鼓の石に おとつるるなり」と歌われています。ここから先は唐津市です。
小倉の常盤橋から木屋瀬を経て、福岡の博多まで約70km、次いで佐賀県に入り、唐津城に達すると、総計約120kmの道程です。振り返るといくつもの町や村の情景が蘇ります。
そして海辺の高台から、松浦湾と虹の松原を眺めると唐津城下はすぐそこだと気持ちが昂揚してきます。
虹ノ松原の二軒茶屋付近には、 虹の松原を愛した歌人の歌碑があります。
中島哀浪は、北原白秋、若山牧水と共に九州三歌人とうたわれた佐賀出身の歌人で、一生佐賀で過ごした地方歌人ですが、その作風は中央の歌人にも負けないと高く評価されています。
虹の松原をこよなく愛しか哀浪はいくどとなく松原を訪れ多くの歌を残しています。
その代表的な歌を刻んだ歌碑「うすべにの貝がらひとつひきだしに悲しき海といつまでかある」があります。